
1.導入
ある日、X(旧Twitter)でこのようなポストを見かけました。
これはマジレスなのだが、色弱はほぼ男性に限られるのでそこに配慮のリソースが与えられることはない。 https://t.co/We22Acrqjf
— ぐんにょりやぎ (@easyandslowly) 2026年1月18日
このような色のみで男女を区別するトイレデザインが、Xで話題になりました。
そこに「色弱はほぼ男性に限られるのでそこに配慮のリソースが与えられることはない。」という引用リプライがつけられたのです。
補足:先天性色覚異常(色弱)の多くは、圧倒的に男性に多いようです。 日本人の場合、男性の約20人に1人(5%)、女性の約500人に1人(0.2%)の割合で発生するとされています。
ここで、男女差別、逆差別等について語るつもりはありません。
私が気になったのは、「配慮のリソース」という言葉でした。
ここで言う「配慮のリソース」とは、時間・心理的余裕・人手・理解力など、配慮を実行するために必要な有限の資源の総体を指しています。
言い換えるなら、「配慮したい気持ち」ではなく「配慮を実行できる余力」の問題だと私は捉えています。
この言葉は、障害者雇用や合理的配慮の文脈でも適用できると考えました。
2.配慮のリソースとは何か?|なぜ合理的配慮は職場で不足するのか
①なぜ特性を伝えても配慮されなかったのか|発達障害・うつ病と職場の現実
私はうつ病を発症しており、ASD強めの発達障害の診断も受けています。
まぁ、人より「生きづらい」部分が多いと思われます。
私は現在休職中で、今年の夏には失職となるでしょう。
せっかく障害者雇用された立場を失うのは無念です。
しかし、自身のメンタルヘルスをセルフケアするのにも限界がありました。
なぜ人によって配慮の有無が分かれるのか|リソース・余裕・「ふさわしさ」という見えない基準
私が働いている最中、幾度となく思ったのが「あぁ、自身の特性を伝えても配慮いただけないのだなぁ」という嘆き、悲しみ、無力感でした。
当時の私は「やろうと思えばどうにでも配慮出来るだろう!」と憤慨しつつも、「職場に余裕がないのだから仕方がない」という諦めも混ざっていました。
その「余裕」という言葉をより具現化したのが今回の言葉である「配慮のリソース」と言えるでしょう。
組織において厳密なルールはあるでしょうし、属人的な部分や柔軟な対応ができる要素もあることでしょう。
しかし配慮がなされるかどうかは、「リソースの有無や配分」、そして「配慮に対象者がふさわしいか」といった条件が加味されるのかもしれません。
私から見た職場は、私に配慮をかけるだけのリソースはあったように見えました。
おそらく、「私が配慮を受けるにふさわしくないと判断された」のでしょう。
「支援が必要な人ほど、支援から遠い場所にいる現実」については、以前記事にしたところです。
もしくは、職場の考える「合理的配慮」が私のイメージするそれと乖離が激しかったのかもしれません。
この経験から学んだのは、配慮のリソースは相互的な理解から生まれるということです。
これは、配慮を受ける側だけでなく、配慮を検討する側にとっても同じで、限られたリソースの中で「誰に・どこまで・どのように配慮するか」を常に選択している現実があるのだと思います。
職場側と本人のイメージが一致するよう、非常に困難な話ではありますが、事前の対話が重要かもしれません。
当時の私に「配慮のリソース」が残っていたとしたら、職場や自身に対してどのようなアクションが取れていたでしょう?(と考えるようにAIにアドバイスされました、当時を振り返るのは辛いものです)
身も蓋もない話ですが、職場で苦しんでいるからこそのリソース枯渇であるため、全く現実性がないと思う一方、おそらく「自身の生存維持のため、可能な限り早期にメンタルクリニックを受診して再休職」していたことでしょう。
踏ん張りすぎたことが、今の私の傷を深いものにしています。
②この世界の、そして私自身の配慮のリソースは?
配慮のリソース、それはボランティア精神だったり、器の大きさ、慈愛の心と言い換えてもよいのかもしれません。
おそらくそのリソースはこの世界において、また個人においても流動的なのでしょう。
・世界的な配慮のリソースの変動
世界的には、景気が良かったりボランティア精神のムーブメントが起きると配慮のリソースは増大し、少しだけ生きやすい世の中になるかもしれません。
また国際情勢に緊張感が走ったり、〇〇ファーストという方向性が極端に進むと、配慮のリソースは減少するのかもしれません。
あまり政治やポリシーのお話をするつもりはないのでこの辺で話を区切ります。
・私個人の配慮のリソースの変動
やはり心身の健康、経済的安定、つまり余裕があると配慮のリソースは大きくなる感覚があります。
ただし、リソースを一括でまとめるのではなく、私の場合は各項目で分けて考え、行動しているようです。
例えば私は、募金は一切しません。いつも募金を見かけるたびに「私にこそ募金が必要だ」と思うほど経済的に不安定な状況にあるからです。
しかし献血は習慣化していました。肉体的には比較的健康であったからです。
自分の血を寄付することはある意味では至高のボランティアだと考えています。 (以前、400ml血液は加工した末端価格で1万円以上と耳にしたこともあります)
現在は服薬の関係で献血ができないのが残念です。
一方、肉体的に健康とは言っても、メンタル不調が続いているため、「易疲労(疲れやすい)」になっています。だから私は公共交通機関ではたいてい他人に席を譲ることはありません。
このように、私の配慮のリソースは各項目によりバラバラであり、各行動もリソースの量によって変化します。
配慮のリソースは有限ですが、心身の健康を優先することで、少しずつ増加することも可能でしょう。まずは自分のリソースを守ることが、他者への配慮につながる第一歩だと思います。
そしてある意味で、私は今「一生懸命」に生きています。その文字のごとく「命を懸けて」です。
そのため、そこある他者への配慮のリソースは、限りなく少ないのかもしれません。
3.おわりに
先程は「一生懸命」という言葉を用いましたが、私の場合は決して良い意味では用いていません。
おそらく「やり過ぎ・過剰」であり「空回り」しているからです。
つまり私は「生きるのが下手」なのですね。
みなさんは一生懸命になり「過ぎて」いませんか?
「配慮のリソース」はお持ちでしょうか?
たまには自身を振り返ってみると、より良い生き方のヒントが見つかるかもしれません。
例えば、日々のセルフケアを優先し、リソースを回復させることから始めてみてはいかがでしょうか。 自分の余裕が、他者への配慮を生む基盤となるのかもしれません。
また、配慮を「ある・ない」で判断するのではなく、「今その人や組織に、どれだけの配慮のリソースが残っているのか」という視点で見直すことが、すれ違いを減らす一歩なのかもしれません。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました🐻
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