
言論の自由は、社会から評価を受ける責任がある。
しかし思想の自由は、自分の人生そのものに責任を求められる。
本記事は、思考や感情を外に出せない苦しさや、社会とのズレの中で生きることについて、自分の体験と考えをもとに記録したものです。
いわゆる生きづらさの一つの形として読んでいただければと思います。
目次
1.はじめに:いつものこと、いつもの生きづらさ
メンタルクリニックの診察で主治医と揉めました。よくある話です。
厳密には揉めたというよりも、「私の思考と感情を外に出さずに溜め込んで、ストレスが溜まった」ということであり、「どうにか私の社会性が維持できたギリギリのライン」でした。
もしも私が思ったこと、感じたことをそのまま伝えたならば、診察の打ち切りや、それ以上の不利益な事態も想定できました。
私には表現する自由がありましたが、その場で思いとどまる選択をしました。
そう日本には、ありがたいことに思想の自由があります。言論の自由があります。
ただしそれは無制限の自由ではありません。
言論の自由においては、私の発言は社会から評価を受ける責任があります。
(つまり、外に出たものは他者の評価に委ねられる)
そして思想の自由において、私の思考や感情は、私自身の人生に責任を求められるといえるでしょう。
(内側の問題は、結局自分で引き受けるしかない)
私の外(社会・現実)に表れる言動は社会的な評価を受けますが、私の内にある思考や感情は私自身のあり方・生き方でしか評価の下しようがありません。
よって私の思想は、私の人生そのもので責任を持たざるを得ないと思っています。
2.ありのままの自分と社会とのズレ
思考や感情を言葉や行動にしない限り、それらは社会に影響を与えません。
じっとしていれば、私は一見「普通の人」として振る舞えます。
しかし、溜め込まれた思考と感情は、結局、私の人生のあり方そのものに強い圧力をかけます。まるで火をかけ続けた圧力鍋のように。
私は、他者が私の内面を受け入れてくれているとは感じませんし、自分自身もそれを大切にできていないのかもしれません。
自身の内面をさらけ出して生きることは、裸で外に出るようなものなのかもしれません。
社会とは、心にも「服を着て」生きることなのかもしれません。
私はできるだけ薄着でいたいのに、周囲は「みっともない」とたしなめ、私自身も恥ずかしさを感じてしまいます。
心が暑くて仕方のない中で、社会は「服を着ろ」と言う。
このズレこそが、私の生きづらさの正体です。
いわゆる「社会性のズレ」や「対人コミュニケーションの難しさ」に近い領域かもしれません。
それでも、「社会性の不足」という言葉で片づけられることに、どうしても哀しみを覚えてしまいます。
3.人生の「オチ」を考える
コンディションが悪くなると、私は自分の人生という物語の結末、いわゆる「オチ」を考えてしまうことがあります。
ここでは、その思考を否定せず、ただ言葉として整理します。
私の人生は私が責任を持つつもりです。しかし、思考と感情のすべてを自分で責任取り切れないかもしれない、という懸念があります。
自分が引き受けきれない分は、結局、身近な他者へと波及してしまうのでしょうか。
これは責任を押しつけたいという意味ではなく、自分の中に抱えきれない領域があるという、率直な認識です。
イメージするならば、インクの入った水風船が割れてしまったような、致し方ない広がりです。
日本社会では、人に迷惑をかけることを極度に避ける風潮があります。私はその空気をよく理解し、申し訳なさを感じます。
それでも、自分の限界を超えた「もうこれ以上無理を求めないでほしい」という思いを、大切にさせてほしいのです。
4.おわりに:心のやりくりが下手な私
今回のような、心の沈み込みとどう向き合うか、もしくはどのようにやり過ごすことが、私は苦手です。
心のやりくりが下手と言えるでしょう。
それでも、静かに文字を綴っている私がここにいます。
まぁ、なんとか、いきています。
明日は良い風が吹くかもしれませんし、美味しいものや株の上昇に巡り合うかもしれません。
今日は、まだここにある。そのことを大切に思いながら、筆を置きます。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました🐻
以下の記事は、以前まとめた「怒りと悲しみのフローチャート」です。
今の私は、元気がないので悲しみルートを歩んでいるところです。
どうにか沈静化に持っていきたいですね。
同じように生きづらさについて書いた記事もあります。
よろしければ、お時間のある時にゆっくりご覧ください。