
1.はじめに:死について考えることは今を良く生きることにつながる?
いつまでも健康でありたいという願いは、多くの人に共通するものかと思います。
自分の歯でものを食べ、自分の足で歩く。いつまでもかくありたいと思っています。
不老不死、というと何だかめんどくさそうだから、欲深い私は不老長寿を目指しています。
けれど私が本当に怖いのは、肉体の死よりも「社会の中で消えていくこと」なのかもしれません。
その不安を整理したくて、養老孟司氏の語る「3種類の死」に向き合ってみました。
こうした不安を考えるとき、養老孟司氏の視点は今なお新鮮に感じられます。
夜、ふとした瞬間に『死の恐怖』に襲われ、『いつか自分がいなくなること』への圧倒的な不安を感じることはありませんか?
このような死の恐怖は、多くの人が抱える普遍的な感情です。
私自身、そんな不安を抱えながら、どうにか生きる術を模索しています。
「実は私の死は存在しない。なぜなら死んだ瞬間に、それを知覚する“私”が存在しないから」
養老孟司氏は『死の壁』の中で、一人称の死は知覚できないという趣旨を述べています。
名著「バカの壁」で有名な方ですね。
今回は同氏の語る3種の死について紹介したいと思います。
また本記事執筆中に、死には様々な捉え方があることを学びましたので、合わせて共有したいと思います。
死について少し考えてみることで、今の生活の見方をより良いものにできれば、と考えています。
2.死を解き明かす3つの切り口(計9つの死)
私がしっかり考えてみたいのは下記の①についてですが、調べていたところ他の観点もあったので合わせて紹介します。
注:私はキリスト教信者ではなく、あくまで一つの観点として③を紹介しています。
①私、あなた、彼ら、人称から考える死
この考え方は養老孟司氏の著作「死の壁」で書かれていた内容だったと記憶しています。
・一人称の死(私自身:I)
まずは冒頭にも紹介した通り、自分自身の死です。
人間だれしも、自分の死からの不安や恐怖におびえることは、少なからずあると思います。
しかし理論的には、死の瞬間には自分自身は存在せず、自分の死を自分で認識することはできません。
そういった意味では、やや冷淡な表現かもしれませんが、一人称の死への恐怖は少し距離を置けるのかもしれません。
・二人称の死(親しい人や目の前の人:You)
これが私たちにとって、最も心情的につらい死のかたちです。
私から見たあなた(この記事の読者ではありません)、つまりは特定の人物です。
個人として認識している方の死は、残される当人にとって最もつらいモノといえるでしょう。
死別による悲しみは個人差もあるでしょうが、数年から一生涯にすらわたるものになるかもしれません。
・三人称の死(世界のだれか、ニュースの中の人:They)
最後の死のかたちは、彼らの死です。
個人として認識しない三人称、具体的にはニュースなどで報道される交通事故の死亡者数などが挙げられます。
あるいは遠い異国での不幸な出来事を耳にすることもあるでしょう。
そんな時私たちは「痛ましいことだ」と思いつつも、遠くのこととして捉えています。
誰もかれもの死に対して、身近な人のそれと同じ扱いにしていては心がもたないことから、防衛本能の一種と考えられるかもしれません。
・小まとめ:一人称・二人称・三人称の死から見る死の恐怖
- 私自身の死(一人称の死)は「認識できないもの」と考えることで、死の恐怖から少し距離を置けるのかもしれない
- 身近な人の死(二人称の死)が最もつらく、メンタルヘルスに深い影響を与える
- 遠い他者の死(三人称の死)は心の防衛機制として受け止め方に距離が生まれる
これらの視点は、養老孟司氏の「死の壁」で詳述されています。
(死生観を深めることで、日常の不安を軽減するヒントが見つかるかもしれません。)
②分類としての死
さて、死についての分類は別の考え方もあります。
というよりも、こちらの方が一般的な概念かもしれません。
・肉体の死(Physical Death)
これは分かりやすいですね。
医学的な死です。脳死についての議論は、ここでは割愛させていただきます。
・社会的な死(Social Death)
これは私にとっては一番大きな悩みかもしれません。
ここには社会からの断絶も含まれるでしょう。
犯罪を犯したり、世間の顰蹙を買う、もしくはいずれのコミュニティにも属していない人は「社会的には軽蔑されたり、そもそも存在していない」とみなされかねません。
はたして今の私は社会的に生きていると言えるのでしょうか。
このような不安は、多くの現代人が共有するものです。
本ブログ執筆自体が、社会的つながりを求めるささやかな試みとして機能しているのかもしれません。
誰とも繋がっていない、誰からも必要とされていないと感じる時、肉体は生きていても心は『死』に近いのではと、不安になる私がいます。
私がこうして不器用に文字を綴ることは、その見えない死に抗う、ささやかな抵抗なのかもしれません。
・記憶の中の死(Final Death:忘れ去られる死)
これは①で挙げた二人称の死に大きく関わるところです。
「去る者は日日に疎し」という言葉もあります。
いなくなった人は良くも悪くも、時の流れとともに忘れられていきます。
それは悲しみの緩和になるかもしれないし、日本人の伝統的には「罪を水で流す」ことにもつながるのかもしれません。
いずれにせよ、だれからも自分の存在を忘れられてしまうという記憶の中の死こそが「最終的な死」と言えるのではないかと私は思います。
それは少しさみしいかな、と思う自分がいます。
・小まとめ:肉体・社会・記憶の3分類から捉える死生観
- 肉体的な死(Physical Death):医学的に明確な終わり
- 社会的な死(Social Death):孤立や疎外による心の死、現代のメンタルヘルス問題と密接に関連
- 記憶の中の死(Final Death):忘れ去られることこそ究極の喪失
この分類は、死の恐怖の本質を多角的に理解する助けとなります。
③補足:宗教的な観点の死
※ここは教義の厳密な解説ではなく、「死の捉え方の一例」としての紹介です。
ここから先は少し番外編です。
「死の捉え方は宗教によっても変わる」という例として、キリスト教の考え方を簡単に触れておきます。
雑学的なニュアンスで掲載したので興味のある方だけどうぞ。
なおイスラム教徒(ムスリム)の方が、火葬を禁忌(ハラーム)とし、土葬を遵守する最大の理由は、「死後の復活」と「肉体の保全」に関する教義に基づいています。
・肉体的な死(Physical Death)
定義:魂が肉体から離脱する物理的な生命の終わり。一時的な状態として捉えられる。
背景:罪の報酬として、人間に死がもたらされた(ローマ6:23、創世記3:19)。
意味:神を信じる者にとっては、この肉体の死は永遠の命への入り口であり、復活の時まで墓に留まる一時的な状態と捉えられる。
・霊的な死(Spiritual Death:神との分離)
定義:神との交わりが断たれている状態。肉体は生きているが、霊的に神から離れており、罪に死んでいる状態。
聖書的背景:アダムとエバが罪を犯したその日に、彼らは物理的には死ななかったが、神の臨在から隠れ、神との関係が断たれた(創世記2:17、3:8)。
現状:全人類は生まれながらに罪のゆえに霊的に死んでいる(エペソ2:1)。
・永遠の死(Eternal Death)
定義:最終的な裁きの後、神から永遠に引き離される状態。永遠の地獄(火の池)での罰を指す。
聖書的背景:「黙示録」にある「第二の死」とは、神との永遠の隔絶であり、これが本当の死(破滅)である(黙示録20:14、21:8)。
救い:イエス・キリストを信じ、救われた者はこの「第二の死」から免れる(ヨハネ5:24)。
・小まとめ:キリスト教視点の死(参考)
- 肉体的な死:魂の離脱、一時的な状態
- 霊的な死:神との分離(生まれながらの罪による)
- 永遠の死:最終的な裁き(第二の死)
これらは一つの宗教的解釈として参考に留め、死生観の多様性を認識する材料となります。
(興味のある方は、他の信仰の死生観も併せて検討すると、より広い視野が得られるでしょう。)
4.おわりに:忘れられるのはさみしいですね
3種類×3ジャンル、計9種類の死のかたちはいかがでしたでしょうか。
私は思いのほか、「記憶の中の死」が心に響きました。
死の恐怖の奥には、「生きた証を残したい」という願いが隠れているのかもしれません。
どうやら私の中には、私のような人間が生きていたことを残したい気持ちがあったようです。
だから私はこうして文字を綴っているのかもしれません。
ふと、自分のアイデンティティに気づけた一日でした。
あなたはどのかたちの死が気になりましたか?
もしかするとその答えが、今を生きる姿につながっているのかもしれませんね。
死について考えることは、結局「どう生きたいか」を考えることでもあるのかもしれません。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました🐻
今回の記事のベースになった養老孟司氏の著作はこちらから
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