社会保険料がつらいあまり、ギリシャ神話「シーシュポスの岩」を思い出す私

うつ病休職中の社会保険料負担がつらい…シーシュポスの岩に重ねてみた

この記事は制度の解説ではなく、休職中に社会保険料を払う苦しさを、不条理として書き残したものです。

1.はじめに:社会保険料つらたん

私は現在、うつ病で休職中のため、傷病手当を受給中です。

そのため社会保険料は自分で支払うわけですが、毎月約5万円、年間60万円の支出となっています。

うつ病休職中の社会保険料負担は本当にきついですよね。

傷病手当の財源は社会保険料の中の健康保険料なわけですから、なんだか不思議な感覚があります。

毎月社会保険料を払いつつ、社会保険料が財源の傷病手当を受け取る。

最初から差し引いてください、と思うのは私だけでしょうか?

いずれにせよ、社会保険料、家賃、光熱費を支払うと手元にはいくらも残らないというか、命をかけて運用中の資産を取り崩す日々です。


お金がかかる趣味が無いのが幸い、というよりも生活状況ゆえに趣味が縮小しているのかもしれません。

最近の購入品は、ヨドバシで買った岩塩プレートとダイソーの鋳物ステーキプレートです。

こんな小さな買い物でも、贅沢かしら?と思うほど、社会保険料のプレッシャーが大きいのです。


社会保険料を筆頭に「生きるためのコスト」を支払い続ける日々を想うと、ふと思い出されるのがギリシャ神話でした。

たしか大岩を山の上に運ぶことを、永遠に繰り返す罰を受けた男の話があったはずです。

この記事の趣旨は、ギリシャ神話を見つめなおすことで、私の心は楽になるのか、それとも一層重くなるのかという試みです。

2.ギリシャ神話:シーシュポスの岩

石を山の上に運ぶ永遠の罰は、ギリシャ神話に登場するコリントの王、シーシュポス(シシュフォス、シジフォス)が受けた罰として知られています。

①罰の概要 

・内容:山の麓から山頂まで巨大な岩を運び上げる。しかし、山頂に達した瞬間に石は必ず転がり落ち、また麓から運び直さなければならない。

・期間:これを永遠に、休みなく繰り返す。

・意味:「徒労」「終わりのない不毛な努力」の象徴とされる。

物語と言えばそれまでですが、「永遠の罰」というのはあまりにも強烈です。

しかし私の辛さは私が生きている限りであると考えて、気持ちが楽になるかというと、それは別問題です。


私の人生は、私が生きている限りにおいて永遠だからです。


なお、治すために休んでいるはずなのに、支払いのために心が休まらない。

この矛盾こそが、私にとっての「大岩であり坂道」です。

シーシュポスの岩のように、うつ病と社会保険料の負担が永遠に続くような気がします。

②なぜこの罰を受けたのか(理由)

シーシュポスは非常に狡猾で、神々を欺いた罪(ヒュブリス)によりこの罰を与えられました。

・神々の秘密(ゼウスの浮気)を漏らした。

・死神タナトスを鎖で繋いで死を止め、人間が死なないようにした。

・死後、冥界から現世へ戻る許可を妻の遺体の埋葬を理由に得たが、戻らなかった(冥界の王ハデスを騙した)。

スリーアウトチェンジ、ですね。

ギリシャ神話は神々が人間臭いことが特徴ですが、うっかりさんな神々にも責任があると思わずにはいられません。

その結果が「永遠の罰」というのは、私にはあまりにも安直かつ残酷に思えます。

ただそのコントロールできない気まぐれさゆえに、ギリシャ神話は「神々≒自然」という概念に近かったのかもしれませんね。

③哲学的な解釈

フランスの哲学者アルベール・カミュは、エッセイ『シーシュポスの神話』の中で、この不条理で希望のない状況を人間に例えました

カミュは「石が転がり落ちていくのを見つめる、その下山する時間こそが意識的であり、シーシュポスは自分の運命よりも強い」と論じました。

そして、その不条理を受け入れ、反抗する姿勢を持って「シーシュポスは幸せだと想像しなければならない」と結んでいます。


私に例えるならば、「社会保険料を支払って窓口を去る。その帰路こそが意識的であり、私は自分の運命よりも強い」といったところでしょうか。

そして、その不条理を受け入れ、反抗する姿勢を持って「私は幸せだと想像しなければならない」と結べばよいのでしょうか?

ギリシャ神話から阿Q正伝を思い出す

……正直に言えば、カミュの見解には共感のかけらも浮かびませんでした。

魯迅が「阿Q正伝」で表現した「精神的勝者」を彷彿とさせます。

魯迅の小説『阿Q正伝』で表現された「精神的勝者」とは、日雇い農民の主人公・阿Q(アキュー)が、現実の敗北や屈辱を、独自の解釈によって「自分は勝った」と思い込むことで心の安定を保つ、自己欺瞞的な生き方や心理行為を指します。

この「精神勝利法」は、当時の中国社会における弱者や民衆の奴隷根性、または変化を恐れる保守的な国民性を風刺するために魯迅が生み出した概念とされています。


いくら生きる気力が少なく、一歩を踏み出しがたい私でも、まだこの「精神勝利法」を取り入れるには早すぎると感じています。

シーシュポスの哲学を社会保険料の現実に当てはめても、簡単には納得できない私がいます。

3.おわりに:運命の奴隷からの解放

カミュの解釈になぞらえると、社会保険料を払った直後の私は自分の運命に勝っていると言えるそうです。

あまり共感が湧く話ではありませんでしたが、一つだけ得た知見があります。


たとえ短い時間、瞬間であっても意識的になれたのであれば、その時の私は運命の奴隷ではない、ということです。


その時に新たな一歩を踏めるかどうかが重要だと感じました。

まずは、岩塩プレートで何を焼くか考えることから、私の「反抗」を始めてみようと思います。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました🐻

岩塩プレート、その後に鋳物ステーキプレートを購入した記事はこちら

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